23 Jan 2006

マスメディアとスタンス/すぐれた意思決定―判断と選択の心理学(著:印南一路)

全ての情報を報道するのは、不可能である。なにも情報を報道しないのは、報道機関ではない。

よって必然的に、マスメディアは「何を報道するか」を決めなければいけなくなり、それは、「何を報道しないのか」を決めることである。傍観者たり得ないからこそ公正中立という美辞麗句でごまかすことなく、政治主体としての自覚を持ち、信念に基づいたスタンスを取るか、結果的に取っていることを自覚しなければならない。

今日の某政治系授業より(受け手というバイアスあり)。

だからこそ、報道側のスタンスが見えてくる記事・番組を、そのスタンスを踏まえて情報の受け手、取捨する側としては選ぶべきなんだろう。そして、「選ぶ」ためには自分も何かしらのスタンスを取らないと選びようがない。情報の大河にのみこまれ、やがては大海に漂流してしまう。

選んだとしても、その「選択」は様々な心理学的バイアスがかかっている可能性は否定できないし、その「スタンス」自体一つのバイアスと言えるかもしれない。
すぐれた意思決定―判断と選択の心理学
ちっぽけな人間の自分に、複雑で広大な世界の全体像を知ることができるだろうか。
目に映る世界の「像」を「色メガネ」を通して見ていくしかないのではないのか。
だからこそ、「普通」「常識」メガネではなく、自分のメガネにこだわっていたい。
偏って、間違って、またメガネを変えて、それでも偏って、そうやって生きていく。

18 Jan 2006

人間、価値、正義/堕落論(著:坂口安吾)

自分にとって、おそらく「正<善=人間に対する」である。

つまり、「正しさ」を考えるためには、「価値のあること」を考えなければいけなく、
その「価値のあること」を考えるためには、「人間」を考えないといけない。

Before thinking of "rightness", I should start from "goodness".
In order to define "goodness", I should understand "man".

そしてひょっとしたら、「価値のあること」は配分不可能(もしくは配分しても意味をなさない)のかもしれない(いや、多いにあり得る)。そうしたら、「配分の正義」の議論自体がナンセンスになるだろう。そこでは坂口安吾「続堕落論」を思い出す。
生々流転、無限なる人間の永遠の未来に対して、我々の一生などは露の命であるに過ぎず、その我々が絶対不変の制度だの永遠の幸福を云々し未来に対して約束するなどチョコザイ千万なナンセンスにすぎない。無限また永遠の時間に対して、その人間の進化に対して、恐るべき冒涜ではないか。我々のなしうることは、ただ、少しずつよくなれということで、人間の堕落の限界も、実は案外、その程度でしかあり得ない。人は無限に堕ちきれるほど堅牢な精神にめぐまれていない。何者かカラクリにたよって落下をくいとめずにはいられなくなるであろう。そのカラクリをつくり、そのカラクリをくずし、そして人間はすすむ。堕落は制度の母胎であり、そのせつない人間の実相を我々はまず最もきびしく見つめることが必要なだけだ。


というわけで、「なぜあなたは不幸なのか」というまさに直球ど真ん中の分析を、幸福度を目的変数に、様々なデータを従属変数として回帰分析を行った論文(PDF)を見つけたので、データを頂けないかダメ元で問い合わせをしてみた。結果待ち中。

もし生データを頂けたら、色々と「価値のあること」について考えてみたいと思う。とりあえず、論文では全員を同一モデルと仮定して重回帰分析にかけているので、まずはメンタルな質問項目を軸にクラスターを見つけ、何パターンかに分類した上で重回帰分析にかけてみたいと思う。効用関数のパターン化と言ってもいいのかも。

こうやって、モデルと仮定を元にごりごり計算しようとする姿勢自体、「人間」から遠ざかっているのかもしれない。でも、身近な人間を元に大胆な確信と信念を持つに僕は悔しいことに若すぎるし、狭すぎる。だからまず大学で一番触れてきた「統計」というメガネを通して「人間」を見てみたい。

14 Jan 2006

人間と正しさ、あるいは新年の抱負/政治学講義(著:佐々木毅)

人間の効用関数が、単純に逓減する関数(所得増大につれて幸福度への寄与が低下)ではなく、ある定点までは単純減少でも、その後単純増加をするような関数だったら(例えば、Y:効用/X:所得として、Y+b=(X-a)^3は、X<a(>0)まで単純減少し、その後単純増加する)累進課税的な所得分配政策では、必ずしも効用の総和の最大化に寄与しないなぁとか考えていた。

実際は、何回も限りなくフラットになる値域があったりなかったり、X→∞で一定の値に収束するかしないかとか、人の嗜好パターンによって大きく異なってしまうんだろうが単純化して考えると・・・

上の式だと、X>aになればなるほど限界効用(所得1単位あたりの効用変化)が大きくなり、超高所得(X>2a)の人から低所得(X<a)への人への所得移転は効用の総和を押し下げる。なんか、超金持ち以外の人の間でのみ平してしまうのが「正しい」政策になる関数だな・・・関数が不適切なんだろうが、功利主義的な「効用の総和」(個人の幸福よりも、社会の幸福の拡大を優先する、所謂ところの「最大多数の最大幸福」)という軸も不適切なのかもしれない。

とここまで道なりに考えてみて、このようなアプローチからは「どのような関数や正しさの軸を取るべきか」という問いに対する解を持ち得ない。そこに至るには、
 1.マーケティング調査・分析手法を駆使し、ファクトベースで設定
 2.(政治)思想的アプローチから、最終的には価値観ベースで選択
という大きく分けてふた通りのやり方があるのかと思う。

関数・モデルを作るためには、ベイズ統計とか確率統計的に前者のアプローチを取ることが妥当な気がするけれど、でもそこでも、最終的には「人間とはなにか」という人間観を問われる気がするし、正しさの軸を選ぶためには、ファクトベースではなく(勿論ケースを利用して浮き彫りにしていくしかないだろうが)「正しさとはなにか」という問いに答えられないと(すくなくとも政策立案者は)いけないのかなぁと。

んで、去年及び今年の残り3ヶ月は、少なくとも僕の関心の軸は、そこにあったのだと気付いた。それこそ、町田康から国家論までおおよそ言及することの多くが。まだ残り期間、出来る限り思考を止めずに、この問題に、正面からぶつかってみたい。

観念的な意味ではなく、具体的な意味での「正義」は一義的に決まり得ないのではないか。でも、それは果たしてまだ「正義」なのか。あるいは、これは捨て去るべき概念なのか。ロールズ「正義論」に刺激を受けたので、次はその当たりを考えよう。

そういえば佐々木毅先生の「政治学講義」が、第1部「原論」の第1章を「人間」から始めていた。蛇足だが本著は、政治学を「合理的なるものreasonableness」への関心と捉える一方で、
政治は誰でも分かるように、人間にとって目に見える、一定の具体的状況の下での、他者を前提にした行為であり、およそ、観念的な意味での合理性rationalityとは両立しない性格を備えている。
と看破して、その「限界」を超えようとする試みを紹介している名著。

6 Jan 2006

部屋の片づけ

徐々にモノが減っていく部屋。近づく新しい生活。

大学に入って以来月10冊くらいのペースで本(古本含む、マンガ除く)を買っていた
ことが判明。割合は、文庫:ハードカバー:新書=5:4:3くらいかな。読書率は3/4。
半分くらいは新居に持っていくことになりそう。

にも関わらず今日も新しいのを5冊購入。英語の勉強向け2冊と、軽いエッセイ2冊。
注目はこれ。佐々木毅先生がコメントを書いているので思わず衝動買い。



後はのんびり正月VHS/DVDの感想をつらつらと。
劇団夢の遊眠社「贋作・桜の森の満開の下」
桜の森の満開の下というか、夜長姫と耳男+火の鳥(太陽編(表)+鳳凰編)のような
テイスト。でもやっぱり最後は満開の下。言葉が呪術的な言霊として響いてくる。
ビデオで声が聞きにくいところがあるのが残念。いやーまいったまいった。
素晴らしき哉、人生
「スミス都へ行く」に次ぐ、フランク・キャプラ監督とジェームス・スチュワートの
コンビ作品。落とされる絶望感と、その後の暖かさは「スミス」よりこちらが好き。
If you were not born, how would the people around you live?
アリ
あまりにも有名な「蝶のように舞い、蜂のように刺す」をウィル・スミスが熱演。
マルコムXとの邂逅。カシアス・クレイからの改名。その裏で、カシアス内藤として
「敗れざる者」として闘った男の物語を思い出す。また沢木耕太郎読もうっと。
スーパーサイズ・ミー
マックを食べたくなくなった。ウエストだけでなくあっちにまで悪影響なんて。。。
ダイエット効果十分。ただし、食事中のご鑑賞はご注意下さい。
いま、会いにゆきます
竹内結子がかわいい。生まれ変わったらこんな恋愛もいいかも。でもやっぱ無理か。