14 Jan 2006

人間と正しさ、あるいは新年の抱負/政治学講義(著:佐々木毅)

人間の効用関数が、単純に逓減する関数(所得増大につれて幸福度への寄与が低下)ではなく、ある定点までは単純減少でも、その後単純増加をするような関数だったら(例えば、Y:効用/X:所得として、Y+b=(X-a)^3は、X<a(>0)まで単純減少し、その後単純増加する)累進課税的な所得分配政策では、必ずしも効用の総和の最大化に寄与しないなぁとか考えていた。

実際は、何回も限りなくフラットになる値域があったりなかったり、X→∞で一定の値に収束するかしないかとか、人の嗜好パターンによって大きく異なってしまうんだろうが単純化して考えると・・・

上の式だと、X>aになればなるほど限界効用(所得1単位あたりの効用変化)が大きくなり、超高所得(X>2a)の人から低所得(X<a)への人への所得移転は効用の総和を押し下げる。なんか、超金持ち以外の人の間でのみ平してしまうのが「正しい」政策になる関数だな・・・関数が不適切なんだろうが、功利主義的な「効用の総和」(個人の幸福よりも、社会の幸福の拡大を優先する、所謂ところの「最大多数の最大幸福」)という軸も不適切なのかもしれない。

とここまで道なりに考えてみて、このようなアプローチからは「どのような関数や正しさの軸を取るべきか」という問いに対する解を持ち得ない。そこに至るには、
 1.マーケティング調査・分析手法を駆使し、ファクトベースで設定
 2.(政治)思想的アプローチから、最終的には価値観ベースで選択
という大きく分けてふた通りのやり方があるのかと思う。

関数・モデルを作るためには、ベイズ統計とか確率統計的に前者のアプローチを取ることが妥当な気がするけれど、でもそこでも、最終的には「人間とはなにか」という人間観を問われる気がするし、正しさの軸を選ぶためには、ファクトベースではなく(勿論ケースを利用して浮き彫りにしていくしかないだろうが)「正しさとはなにか」という問いに答えられないと(すくなくとも政策立案者は)いけないのかなぁと。

んで、去年及び今年の残り3ヶ月は、少なくとも僕の関心の軸は、そこにあったのだと気付いた。それこそ、町田康から国家論までおおよそ言及することの多くが。まだ残り期間、出来る限り思考を止めずに、この問題に、正面からぶつかってみたい。

観念的な意味ではなく、具体的な意味での「正義」は一義的に決まり得ないのではないか。でも、それは果たしてまだ「正義」なのか。あるいは、これは捨て去るべき概念なのか。ロールズ「正義論」に刺激を受けたので、次はその当たりを考えよう。

そういえば佐々木毅先生の「政治学講義」が、第1部「原論」の第1章を「人間」から始めていた。蛇足だが本著は、政治学を「合理的なるものreasonableness」への関心と捉える一方で、
政治は誰でも分かるように、人間にとって目に見える、一定の具体的状況の下での、他者を前提にした行為であり、およそ、観念的な意味での合理性rationalityとは両立しない性格を備えている。
と看破して、その「限界」を超えようとする試みを紹介している名著。

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