29 Dec 2005

コミュニケーションと政治/プロフェッショナル広報戦略(著:世耕弘成)とドキュメント 戦争広告代理店(著:高木徹)の比較から

「いくら中身が良くても、伝わらなければ意味がない」という当たり前のことを、
政府と国政選挙において実践した議員の本。



この本(プロフェッショナル広報戦略)自体は、今まで広報不在だった政府・政党にしごく当たり前の広報(これ自体は目新しい内容ではない)を埋め込んだ本人による文献として意義があると思う。
以下、最終ページからの引用。
 どんなに立派な政策だろうが、それを国民に理解してもらい支持される作業が重要なのである。そして最終的には選挙を通して与党としての信任を得なければ、政策を実現できないのだ。中身がきちんとした政策であるのは当然として、国民、社会とのコミュニケーションが政治の本質と言っても過言ではない。
これは至極真っ当なことを言っていて納得できる。ただ、一抹の懸念がぬぐえない。

大前提として、国民が政策を理解できるとしていると思う。僕の懸念は、果たしてそれが可能なのかということ。国民の能力的に可能かというよりは、物理的に可能か(モニタリング・事後チェック可能か)という懸念。もし「できない」としたら、実質には一方通行(政治→国民→投票→政治)の「広報」は、コンセンサス形成の手段として堕してはしまわないだろうか(むしろそれが本質と捉えるべきなのか)。

この例が妥当かは分からないが、ドキュメント 戦争広告代理店にあったような例が思い出される。旧ユーゴ紛争において、セルビアが「民族浄化」「強制収容所」といったキーワードにより「悪役」のレッテルを貼られた背景には、セルビアと対立していたボスニアをクライアントとしていた米国PR会社がいた。国際世論が紛糾し、「事実」として認識されてしまった後で、「ある事象がないことを証明する」という不可能な立場に立たされたセルビアは結局情報戦に敗けた。



ああ、ここで懸念しているのは、僕が本質的だと無意識に考えている「中身」の議論が空に離散して、フレーズの快活さや(抽象的な意味の)パッケージの美麗さという情報戦に陥ってしまうのではないかということなんだろう。そして、それをヘッジする仕組みは、現在のところ政策実施者の善意に委ねるしかないのではないか。

何はともあれ05年度総選挙は、日本における選挙マーケティングの、ターニング・ポイントになる選挙であったことは間違いない。今後国民が、どのようにして政策を見極め、モニタリングする目を養っていくのか。もしくは、そのようなことは不可能だと捉えて、一連の政策立案・実施・報告を確実に成し遂げてくれそうな人を見抜く目を養う方向性が現実的かつ一般的な感覚なのかもしれないなぁ。

とここまで考え谷口先生が「小泉首相の示したコミットメントに有権者は投票した」というような
意味合いのことをおっしゃっていたことを思い出した。じゃぁ、「演技のコミットメント」と「真剣のコミットメント」をどう見分けよう?

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