6 Jun 2005

わりきれない世界

自分は、「わりきること」が得意だと思う。
でも、「わりきること」自体は好きじゃない。

例えば、あれとあれは同値(equivalent)だと納得したり、あれはこれを2つとそれを3つ足して5で割ったものだとして比較したり、そうやって身の回りの世の中を「理解」してしまうことが多い。

カテゴライズするとも、概念化するとも、結局・・・だと言うことと言ってもいいけど、そうやって言葉を整理してしまうことは、そこそこできたりする。でも、そんな「理解」は屁でもない、とも思ったりする。

例えば、ナイロビの「空」と多摩市の「空」は違う。どう違うとか、どっちがよいとかじゃなくて、違う、それだけでよいと思う。僕が得た経験は、素敵なそして残念なことに、僕だけのものだ。多分、言葉では伝わらない。

言葉は結局、事象Aを"A"と表し、「"A"は"B"だよね。」と言うことで事象Aと事象Bの等価性を伝えようとする。でも、Aと"A"が人によってずれていて、Bと"B"が人によってずれていて、「うん、そうだよね」といってくれた人には、その人の世界にあるA'=B'としてしか伝わらない。

だからといって、人は分かり合えないと「わりきる」ことは嫌いだ。言葉で分かり合えないなら、「わりきれない」ままの景色を、体験を、世界を一緒に眺めればよい。そして、何も言わなければよい。そんな、「わりきれない」世界の方が好きだったりする。

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