31 May 2005

JRと所得分配

ガイアの夜明けを見た。
今週は「安全神話の崩壊~効率主義の先に見えたもの~」で、あんまりテーマとしてまとまってなかったけど、まあそれなりに楽しめた。

安全性と効率。安全性にはコストがかかり、効率が効果÷コストである以上コスト↑ならば効率↓となり、トレード・オフが生じる。でも、その難しいトレード・オフに優先順位を付けて、ぎりぎりの線で両立していくのが経営。

一日にダイヤが五本、車両は一両、乗客数は500人だけど、広島と山陰を結び、そこに住む人にとっては大切な三江線がある。圧倒的な赤字路線。経済的には他に競合するサービスの提供者がいない以上、ブレイクイーブンまで単価を上げることもできるけど、そうはしない。他のJR西日本の「ドル箱」路線で何とか採算を合わせている(しかも経常利益はずーっと黒字、大阪近郊の路線と新幹線のお陰だろう)。

これって、いわゆる「民」のやっていることだけど、一種の所得配分だよな。新幹線とか都心部の人に多めに課金して、剰余分で地方の赤字路線を維持していく。今までそう思わなかったけど、新幹線がやたら高い気がしたのは、このせいかもしれない。

一方で、飛行機や他の交通機関と競合している地域もあるのだから、会社のイメージを損なわないためにやっているのかもしれない。最初から運営していない路線だったら誰も文句は言わないだろうが、一度得た利益が失われるときに大きな不満足が生じるだろうから。

また、民営化の仕方が大きく異なる道路公団は、「所得配分」のための原資を稼ぐだけのインセンティブを、まとめた組織形態でどうやって作っていくのか。もしくは、地方を「捨てる」ことができるのか。むじぃ。スタンスを決めかねる。

30 May 2005

マッキンゼー事業再生/冨山和彦インタビュー


結構久しぶりにミクロな観点からの「経営」の本を読んだ。「新・日本の経営」は、あくまでマクロな経営観のお話であり、アイセック引退以来意図的に避けていたミクロな経営のお話をふと読みたくなったので、経済学部図書館で1冊借りて読むことにした。

ターンアラウンドに取り組んだ経営者へのインタビュー記事が非常に面白く、特に韓国の国民銀行再生(Ch.3)とCRMを活用したカジノ再建(Ch.4)が印象に残った。後者は、偶然ビジネス英会話6月号(英語で学ぶMBA実践講義)でも触れられていた。

その中でも一番印象に残ったのは、産業再生機構COO冨山和彦さんへのインタビューで、特に
「経営者は本来、ヒト、モノ、カネ、この三つをすべて把握して・・・
それらを超短期、短期、中期、長期くらいの四タームで見る。つまり、
三×四=十二の局面を把握していかないといけない」
という言葉が印象に残った。某ジョブで、自分はスナップショットで静止画を描写することはそれなりにできても、時間軸を動かす想像力が欠けているなぁと痛感したことを思い出す。まあ、五日間でお金もらって自分の課題に気づかせてくれてありがとうとも言えるけれど。

他にも自分には「まだ」できねーと思っている部分を抜粋。
「(ターンアラウンドの)戦時は独裁です。権力を集中させた人間が間違う
リスクもあるがそれよりも合議制のリスクの方がはるかに大きい」
「ロジカルに論破しながらも、エモーショナルにはできるだけ禍根を残さ
ないようにして、ゴールに到達しなければいけない」
最後に、最近の自堕落な生活に反省して。
「人間は怠惰な生き物だから、何らかのディシプリンが効いていないと易き
に流れてしまう」
アウトプットでの競争に晒される機会をもっと持たないと、もったいないもったいない。

23 May 2005

政党政治の再生(著:北岡 伸一)

ふと図書館で手に取った政党政治の再生―戦後政治の形成と崩壊を読破した。改めて授業を受けられればよかったのに、と残念に思う。

政治家について「政治は結果責任であるから、無能でクリーンよりダーティでも有力な人物のほうがましである」と言っていることは非常に共感できる。

政治は、実現のための手法である。ディスカッションとサジェスチョンだけでは、変わらないことにより利益を得る人間しか幸せにしない。リーダーは、目標を掲げ、支持を集め、支持に応えるために、どこかで実現のための「決断」をし、実現のために戦い「結果」で語らないと意味はないだろう。

ただし、それを少数の人間に期待するのは限界があるから、「政治家の利己心を利用し、彼らを競争させ、勝ち残った者に国政を託する」必要があり、その前提として国民は「政治化がいかにフェアな競争をするかを監視することでなければならない」と説いているのは面白かった。

ある観点からは政党も「民」であり、「官」から脱却した「民」の競争によって「公」の利益を担保することを期待してみたい。そのために結局は、前提となる部分のルールを定め、監視のクオリティを高めるしかない。そこに絶望してエリート民主主義を信ずるより、できる限り参加型民主主義を信じてみようと思う。