言語学と平和学を結びつけた学問を立ち上げようとしている友人と数年振りに会いました。平和学とは、極論で言うと暴力学(あるいは暴力排除学)らしいのですが、そこに言語学を組み合わせようとする視点は非常にinnovativeだと感じました。
言葉による暴力、排除、差別に対し、どうアドレスしていくのか。言語とは何らかのニーズがあって生まれ淘汰されていくわけで、かちっと「正しさ」を当てはめることは難しいとは思いますが、西洋哲学的な表現ツールとしての言語観から離れた、言語的観点からの「正義論」があってもよいと思います。ロールズ風に言うならば、論理的に正しい言語ではなく、公共的に正しい言語と
でも言うのでしょうか。そんなイノベーションを楽しみにしています。
18 Jun 2006
12 Jun 2006
11 Jun 2006
分けること/福祉を変える経営(著:小倉昌男)
スペシャルオリンピックス・東京地区大会にボランティアとして参加しました。
きっかけは、入社前に映画を見よう月間にしていた3月に見た、ビリーブ、という映画。
きっかけのきっかけは、去年亡くなられた小倉昌男氏の「福祉を変える経営」。

正直に言うと、博愛的な発想とか、キリスト教的なチャリティ精神とか、必要以上に美化する傾向とか(最近はそうでもないが)、障害者を取り巻く現状の「視線」に対して何となくキモチワルイ感覚になることはあります。
でも、先天的あるいは後天的な理由で、何らかのことが「できない」ヒトをだからといって排除するのはおかしいと思うのです。ableとdisableを分けるものは何なのか。何をもって「健常」と言い、何をもって「障害」と言うのか。分けることに意味があるから(例えば障害年金交付からフリーライダーを排除するとか)分けているのですが、その「分けること」自体が、分かれていることを所与としたヒトを再生産してしまっている。
でも、多分社会を構成して運営していく上で、分けざるを得ないことはある。そうすると、僕らが学ばなければいけないことは、「分け方」ではなくて、分けることの根拠である「違うこと」に対する姿勢なんじゃないでしょうか。
いい加減、違いを見つけて切り分ける行為を、やめにしませんか。
きっかけは、入社前に映画を見よう月間にしていた3月に見た、ビリーブ、という映画。
きっかけのきっかけは、去年亡くなられた小倉昌男氏の「福祉を変える経営」。

正直に言うと、博愛的な発想とか、キリスト教的なチャリティ精神とか、必要以上に美化する傾向とか(最近はそうでもないが)、障害者を取り巻く現状の「視線」に対して何となくキモチワルイ感覚になることはあります。
でも、先天的あるいは後天的な理由で、何らかのことが「できない」ヒトをだからといって排除するのはおかしいと思うのです。ableとdisableを分けるものは何なのか。何をもって「健常」と言い、何をもって「障害」と言うのか。分けることに意味があるから(例えば障害年金交付からフリーライダーを排除するとか)分けているのですが、その「分けること」自体が、分かれていることを所与としたヒトを再生産してしまっている。
でも、多分社会を構成して運営していく上で、分けざるを得ないことはある。そうすると、僕らが学ばなければいけないことは、「分け方」ではなくて、分けることの根拠である「違うこと」に対する姿勢なんじゃないでしょうか。
いい加減、違いを見つけて切り分ける行為を、やめにしませんか。